ゲームと言われてどんな風景を思い出しますかと言われたら、
電車で、スマートフォン相手に一人で遊ぶ光景を思い浮かべる人が多いんじゃないだろうか。
そして、ゲームの代表格がこのような形になってしまっていることを、僕は残念に思っている。
今のソーシャルネットワークゲームのような大規模な開発をする力もないけど、
仮に有名なコミックキャラクターのライセンス協力と開発力があってもやらないだろうな、と思う。
しかし、ゲームそのものには魅力を感じている。
広い意味でのゲームは、いろいろだ。
トランプの遊びもゲームだ。
鬼ごっこだって、ゲームだ。
釣りもゲームと言っていいと思う。
ゲームから学んできたことはたくさんある。
最も役に立っていることは「レベルデザイン」という考えだ。
これは、「ゲームは難しすぎても、優しすぎても集中が続かないから、上達に合わせて、少しずつゲームを難しくしていく」という考えのことだ。
ヒットするゲームは、少しずつ難しくしている按配がよくできている。
この考えは、資格の勉強や、仕事において役に立った。
資格の勉強が続かない人は、レベルデザインがうまくいっていない。
簡単にしたり、難しくしたりする調節は、自分でやらないといけないのだ。
そして、僕にとって、ゲームの役割と、ゲームをすることの目的は、「会話を生むこと」である。
長続きしているソーシャルゲームは、会話をするネタを提供し続けている。
今風に言うと、「バズる仕組み」を提供しているのだ。
そのほとんどは、ゲームそのものの奥深さによってバズっているのではないので、僕はちょっと不満だ。
いいゲームは、真剣にやればやるほど会話が生まれる。
釣りをする人が、昔の釣果を自慢げに語っているのは、実にいいゲームをしているなと感じる。
自慢げに語るのも、プレーの延長としてやっているんじゃないかな。
将棋は、プレーそのものが語りあいになっているように思える。
仕事でも家事でも、会話のネタにするためにやっていると思って取り組むと、
行き詰っている人にとっては突破口になるのではないかな。