出典が不確かだけど、谷沢永一さんが書いたものの中に「鬱になったら読書をする気力もおきない。読書をする気力というのは相当なものだ」というような文がある。
それを読んだときは、まだ20代の若いころだったと思うけど、びっくりした。
気力が、そこまでなくなったりすることを知らなかったのだ。
それからは、気力に個人差があることを忘れないでいようと思った。
気力は数値化できないけど、はっきりと目に見える。
気力は、心身のどちらの状態からも影響を受ける。
気力が充実していた人も、気力がなくなるときがくる。
「気力がないときは、なくても大丈夫。」
こんなふうに、自分や周りの人がどんな状態でも認めて受け入れるというのが、アドラー心理学のスタンスだ。
だけど、この考えは、多くの自制を必要とする。
この言葉を言うときは、何かをあきらめないといけないときだ。
また、アドラー心理学は、自分を受け入れること、「自己受容」を重要な考えとして基盤に置いている。
あきらめることと、自分を(ときには他人を)認め続けるということということは、真逆のことだ。
だから、よくよく考えていないと、わけもわからないままにアドラー心理学的な考えに振り回されてしまうだろう。
寄り添いながら、感謝の言葉に目を向けながら、あんまり考えないことがカギだと思っている。
それは、仕事をしたり、家事をしたりというものとは違う種類の気力を必要とするらしい。
仏教でいう、諦観にあたるものかもしれない。